書きたくなくても 書きたくなる
なんでだろう
てがおぼえているからかな」
2011年8月25日(木)の読売新聞「こどもの詩」に載っていた、岐阜県海津市の小学4年生の栗田 真由さんの「えんぴつ」という題の詩です。
たしかに、幼児も子どもたちも、クレヨンや鉛筆を持つと何かを書きたくなりますね!もちろん大人も!
先ほどの詩への選者の長田 弘さんが明快に答えています。
「鉛筆はね、人がことばを書くための道具じゃない。人をことばに導いてくれる道具なんだ」と。
筆記具で文字をというより言葉を書き、自分の思いを書こうとしてもなかなかぴったりとはまる言葉は出てこないことがある。短歌を詠んで書いても何度も推敲し、どうにか少し良くなったというところまで行くが、なかなかフィットする言葉に導かれないことが多いが、徐々に近づく感覚を味わうことができる。
今日もまた、くずし字を解読時の鉛筆や書の臨書での毛筆、硬筆練習でのペン等と筆記具を持ち、毛筆や万年筆、鉛筆の濃さによる用具の違いによって用途や気分が相当変わることを実感してる。
書くという行動は、聞くという行動や見るという行動に加えて、アウトプットする行動が加わります。「聞いたことをメモする」「見たものを文字にして書く」「考えを書く」などですが、そこではさらに書くという行動をしようするその意志や意欲がなくてはなかなか行動に結びつきません。まして文字を習うという場合は、手本を詳しく観察するための観察力や空間把握など様々な脳の部位を使って、さらに自分の腕や指を駆使して、どの位置に書くかなどの自分の決断、どのくらいの長さに書くかなどの持続力、どこまでで止めるかの断念という一連の行動とどのような文字を使うのが適切か等も考えながら書き進めていきます。さらにただ単に文字を書くだけでなく、その文字にまつわる様々なイメージや思い入れ等の心理的な影響によって筆圧や文字の大きさ、スピードなど様々要素も加わっています。これはパソコンのキーボードを打つ動作やスマホの文字を選ぶというのとは大きく異なります。書くという行動は脳の様々な場所に影響を与えている、とても能動的な行動なのです。
これから解読できたものから順次掲載します。まず初めに斎藤茂吉の短歌の色紙です。変体仮名が使われています。これは茂吉の記念展に於ける複製です。
明治33年の「小学校施行規則」で仮名が一音一字に決められた結果、現行のひらがなとカタカナになりました。それ以外の字体(あ:阿・愛・悪・亜など)は「変体仮名」と呼ばれ、教育現場では指導されなくなりました。もちろんすべてすぐに一音一字になったのではなく、社会生活においては変体仮名を学んだ人たちは使っていたわけです。現在ではほとんど読めない状況になってしましました。
さて、上掲の歌は、斎藤茂吉「ふ(婦)りさけて 峠を(乎)見れ(連)ば(盤) 現身は(者) 低きにより(里)て 山を越えにき 茂吉」です。
斎藤茂吉歌集「たかはら」昭和5年、高野山で開かれたアララギ安居会(あんごえ)に参加したときの歌で、「紀見峠遠望」と註がある。意訳すると、遠く仰ぎ見ると峠か見える、そこで生きている人々は山の低いところを通って苦労を少なくするために苦心して道路を作り行き来をして生活していたのだなという気付きを詠んだ歌
さて、色紙の書き方をみて、揮毫するという行動から、同じ行動である、話す、歩く、食べるなど共通の日常に於ける行動スタイルを少し、推察してみましょう!もちろん色紙揮毫という日常とは違う意識も働いていることになりますが、これは特に何かを構えて意識したときの行動、対人関係の表れになるかと思います。
斎藤茂吉は、この色紙では、一文字一文字、上下左右や文字間を等間隔にきちんと並べて配置する書き方です。これは全体への配慮や文字と文字の間をあけて落ち着いた書き方です。一つ一つ確実に計算して訂正に行動する傾向が見えます。几帳面といってよいでしょうか?
茂吉の性格をネット検索すると、何事も準備を十分にし、独自の価値観を持ち、とことん極める傾向があるようです。半面、他人に厳しい面もあります。行書体で書かれていますので、感性も感情も豊かな面もあるようです。
仙波東照宮と右から書いています。高田早苗書と印が押されています。(川越仙波東照宮)
筆跡特徴で大きく目立つのは、「横線右下がり」です。
これは、一般に右上がりが多い中で、少数派を行こうとする傾向で、常識や一般などにはちょっと待てよ!とよくものごとを考えて行動する人に多い書き方です。したがって、見方がユニークであったり、じっくり考えたり、違う角度から物事を捉えたりして行動する傾向があります。このことは「筆跡の科学」森岡恒舟著に拠れば、評論家、学者、文化人に多いと書かれています。
普通、碑の題額は篆書体が多いのですが、「行書(連綿~線がつながる)」で書かれています。この辺も一般とは違います。また、連綿は、同じく森岡は、「情緒、伝統に魅かれて人情味がある。穴六の江戸時代型。」また、同じ太さで続け書きする強連綿傾向もあり、これも同じく森岡は「自信家型、集中力に優れる」と書いている。さらに、接筆(画と画が接する所)はきちんと閉じて接しています。
「接筆閉」、これも森岡によれば、小学校で習った書き方をずっと大人になった今でも忠実に書いているので「まじめ、潔癖、几帳面、ただ物事を決めてかかえい、融通が利きにくい面もある」とあります。
また行書であるのに、折れ曲がる所「転折」は、普通行書は丸くなりますが、角張っています。「転折角」です。この行動傾向も、森岡によれば、「几帳面、ルール通り行動する」とあります。自分の基準からぶれない行動をする人のようです。
もう一つ、文字の筆画の空間のとり方が急に狭くなることのない等間隔性を保っています。「等間隔」は、森岡は「平等の概念や等価の集積になるコンピュータ理論ともつながりを持つがいねんです。さらに言えば、部分的に苦しいところがないわけですから、理論や話の中にどこにも区がない、考え方の硬性も理路整然としていて無理がないということに通じるかもしれません。」と述べています。
最後に右に傾いた字形になっていますね、「右傾」といいますが、これについても森岡によれば「本人は、傾いているのが安定していて、一般には不安定で、転倒、挫折、失恋、倒産等のあまり好ましくない事態に陥りやすい傾向があります。その一方でこの書き方の人には優秀な人、天才肌の人も多いのです。」とあります。
1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。法学者の小野梓と知り合い、大隈重信の立憲改進党に加わった。また、大隈と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参加し東京専門学校評議員・講師となり、早稲田の運営に力を注いだ。1887年から1890年末まで読売新聞主筆[3]。1901年、法学博士。1907年、早稲田大学が総長・学長制を敷くと、初代学長に就任(初代総長は大隈重信)。1923年(大正12年)5月から1931年(昭和6年)6月まで同大総長[2]。1928年、帝国学士院会員。
教育者として早稲田大学の運営に携わる間に、1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現川越市)から立候補し全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加し、通算6期務めた。主筆退任の時期は第一帝国議会召集の時期に重なる。1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長、1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となる。1897年、外務省に入るに際して株主として経営に参画していた読売新聞からの退社を広告した[4]。1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れた。
1915年5月19日貴族院議員に勅選され[5]、また、8月には第2次大隈重信内閣の内閣改造で文部大臣として入閣した。
早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した[6][7]。現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。
1925年(大正14年)3月23日、仮放送を開始したばかりのラジオに出演、「新旧の弁」と題する講演を行った。これが日本最初の教育放送である[8]。
1931年(昭和6年)6月、病気を理由に早大総長を辞任。翌月10日の臨時維持員会は高田の名誉総長推薦を決議したが[9]、高田はこれを固辞して悠々自適の隠居生活に入った。1938年(昭和13年)12月3日死去。葬儀は大隈講堂で大学葬により行われた[10]。
妻は前島密長女。戒名は明教院顕誉半峰居士。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
如何でしたか?筆跡から読み解く人物像~書くという行動と共通する個々人の行動の関係でした。川越から議員に出馬しています。
国立国会図書館デジタルコレクションの「有馬山温泉小鑑」の冒頭の目録部分を「みを」を使って試してみました。だいぶ読めます。いくつか間違っているところもありますが、修正機能もあり、テキスト化も可能です。90%前後解読します。しかし、書道の草書作品や手紙類はまだまだのようです。「こと」などの合字などはこれからの課題のようですが、これで大変助かる人もいるかと思います。同じようなくずしを文章の流れからどう読むかも課題であると思いました。
筆記具、特に毛筆小筆で言葉(文字)を書くことは、指先に神経を集中し、目を使い、書かれる対象の紙などとの微妙な小刻みに震える感触や筆圧の関係を瞬時に感じ、脳と神経を通してやり取りしながら書き進めていく。
このことは、パソコンやスマホを扱う便利な機器とは大きく異なっている。そのことをよく知っているIT関連の人物の話を紹介します。携帯電話やスマホの弊害について、既ににご存じの方も多いと思いますが。制限が必要のようです。
→スティーブ・ジョブズは
わが子になぜiPadを触らせなかったのか?
といった副題がついていましたが、
結論としては「悪影響があるから」だったそうです。
スマホに依存すると、
集中力が低下し、孤独感が強まり、
心の不調に陥る危険性があるとして、
デジタルデバイスを触らせなかったそうです。
さらには、
マイクロソフト創業者のビル・ゲイツも、
子供が14歳になるまでスマホを持たせなかったそうです。
悪影響があるのは大人も同じで、
フェイスブックの「いいね」機能を開発した
ジャスティン・ローゼンスタインは、
自分のフェイスブックの利用時間を制限し、スナップチャットをやめ、
スマホ利用を制限するアプリまでインストールしているそうです。
それほど、現代人の脳は危険にさらされており、脳の状態も良くないようです。
とはいっても、
仕事をするうえでパソコンやインターネットは欠かせないですし、
日常生活をするうえでもスマホを使わないのは無理がありそうです。
じゃあ、どうしたらいいのか? ってことですが、
制限するのにも無理がありますし、
自分で脳のケアをするしかないでしょう。
そんなこと出来るの?
非常に興味深い手法があるそうです。
頭蓋骨を自らハンドケアすることで、脳の機能を高めるという方法だそうです。
ちょっと怪しいなとも思ったのですが、
ベースとなっているのは日本に昔からある「手当」だそうで、
副作用もないし、自分で出来るというのも良いですね。
それに、40万人以上の臨床で結果が出ていて、
著名人、有名人、モデル、俳優、歌手、プロスポーツ選手なども
密かに取り入れているそうです。
2018,3「The Times」などを引用
私は「手当」にも賛成ですが、脳の活性化に「手書き」、特に小筆による新しい内容を紙に書くことをお勧めします。俳句でも短歌でも水彩画でも創造力を働かせ脳に刺激を与えましょう。何でもマンネリを防ぐことが必要と考えます。